「猫の子一匹いない」とは猫に優しい国、イタリアならではのことわざだった。

 

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イタリアのことわざ Non c’era un gatto.

 

人っ子一人いない、とは、

ガラガラに空いた、閑散とした風景を思い浮かべます。

自分一人以外誰もいない。

あるいは自分もそれを見ているだけで、自分すらそこにいない。

その状況をイタリアでは

Non c’era un gatto.猫の子一匹いないと表現します。

世界ではいろんな猫への接し方がありますが、

写真家・岩合さんの世界猫歩きのイタリア編を見て驚いたこと。

イタリアでは街中そこかしこに猫がいる。

飼い主のいない猫も、飼い主のいる猫も。

当たり前のように街に溶け込み、暮らしていました。

イスタンブールも猫に優しい街として知られていますが、

 

イタリアもまた、猫に優しい国なのですね。

 

 

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え?イタリアの猫はパスタを食べる?

 

日本には「猫まんま」と言う、

ご飯に魚を混ぜたもの、味噌汁をかけたものがあります。

古く、昭和の時代には、猫の食事として定着していました。

イタリアでは何と、パスタを食べる猫が。

この子だけが特別なのかと思いきや、他にもパスタを食べる猫が。

ちょっと食べづらそうでもあります。

岩合さんの世界猫歩き・イタリア編では、

窓から外にいる猫にパスタを投げ与えている様子もありました。

ところ変われば猫の食事も変わる。

そして、飼い猫、飼い主のいない猫へも分け隔てなく。

話はそれてしまいましたが、そのようにイタリアでは

猫が街にいる光景は当たり前。

室内飼いが主流となっている日本とは大きく違います。

「猫の子一匹いなかった」=「人っ子一人いない」。

猫は空き地や塀のすき間などでも見かけることがありますが、

人がいないだけではなく、野良の小さなネコの子供一匹すらいない、

つまり生き物の気配さえなにもしないほど人の気配がない状態を指しています。

猫は獲物を狙う際など気配を消して隠れていたりしますが、

その気配すら感じられないほどだというイメージでしょう。

もし「ネズミ」や「ゴキブリ」でこれを表現すると、

超強力な殺虫剤で一掃されてしまったような殺伐としたイメージになります。

空き家やゴーストタウンの「誰かいるかもしれない」感を残した

「猫の子一匹」はぎりぎりリアルを追求した適切な表現ということでしょう。

猫に優しい国、イタリアでは、今も多くの猫たちが外を歩いている。

だから、この表現も的を射ていますが、

仮に日本に同じ慣用句があったら、いずれ死語になってしまうのかもしれませんね。

 

 

今日のヒメちー

 

イタリアの方は皆さん、猫に優しいのですね。

日本でもし、猫が自由に歩き回ったら…。

考えるのも恐ろしいです。

イエネコの寿命はぐんと縮まってしまいますね。

さて。

この家には猫はヒメ一匹です。

と言うことは…。

ヒメが見えなくなれば

「猫の子一匹いない」が成立するのでしょうか。

どうだ!

これで「猫の子一匹いない」が完成しましたよ。

ぺろん

ふふふ、残念、ここにいたー。

国によって面白い言い回しってあるわね。

日本の猫の名が付くことわざは

猫が嫌いな人が考えたんじゃ、と言うものばかりだけど

猫に優しい国の猫のことわざは、ひとと同列に扱ってくれる。

こう言うのっていいねー。

 



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