白でも黒でも鼠を捕るのが良い猫だ、に見る良い猫論とは?

 

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「黒い猫でも白い猫でも鼠を捕るのが良い猫だ」

 

昨日8月8日は「世界猫の日」でしたね。

きっと多くの猫飼いの人が、

猫を永遠に愛でることを新たに誓ったに違いない。

『白でも黒でも、ネズミを捕るのがいい猫だ』、

と言う言葉、聞いたことがありませんか?

これって元の言葉は、中国語で、

不管黑猫白猫,能捉到老鼠就是好猫、と言い、

中国共産党の元指導者鄧小平の有名な言葉であり、

その考え方を猫論、白猫黒猫論、黒猫白猫論ともいうそうです。

不管黑猫白猫,能捉到老鼠就是好猫、

「黒い猫でも白い猫でも、鼠を捕る」。

意味はわかるのだけれど、

なぜこんなことをわざわざ格言として残す必要があるのかしら?

現代の猫はネズミを捕らない。

外を歩けばネズミを見ることはあるけれど、

家の中にはまずネズミは出ない。

ネズミの多い昔ならばともかく、

ネズミ捕りの目的で猫を飼う人はほとんどいないはず。

食料として捕る子もいるけれど、

黒い猫でも白い猫でも、三毛猫だって、

生きていくためにはネズミを捕るのが上手な方がいいよね。

 

 白でも黒でも、ネズミを捕るのがいい猫だの意味と使い方。

中国では、計画経済であれ市場経済であれ

資源配分の手段の一つに過ぎず、政治制度とは関係がない。

資本主義にも計画はあり、社会主義にも市場はある。

生産力の発展に役立つのであれば、実践の中で使用すればよい。

この言葉はおおむねこのような意味である。

Wikipediaより

鄧小平の言葉、として有名にはなっているけれど、

その昔、清の時代からある言葉で

猫論の初見は清代の小説集『聊斎志異』(蒲松齢著)であると言われています。

「秀才駆怪」という話の蒲松齢による評に

「黄狸黒狸、得鼠者雄」(黄色い猫でも黒い猫でも鼠を捕るのが優れている)

とありどんな方法でも結果を出せればそれで良いという意味で使われています。

肌の色や人種は関係なく、真面目に働くのが良い国民である。

ちょっと中国らしいと言えば中国らしいのかも。

…ネズミ(おもちゃ)を捕まえた上に

惨殺(分解)してしまうヒメちーは

…よい猫なのだろうか。

 

 白でも黒でも猫に捕られるネズミは良いネズミだ?

白でも黒でも鼠を捕るのが良い猫だ、は、

外見なんかどうでも良いから、

とにかく働くやつが良いやつだ、ってことになるんでしょう。

実に中国っぽいことわざですね。

動物のお医者さんで、ネズミ嫌いの二階堂が発した言葉があります。

動物のお医者さんより

 

ネズミが嫌いな二階堂にとっては、

猫がネズミを捕るのを待つよりも

自ら猫に捕られに行くネズミが良いネズミなのでしょうね。

白でも黒でも鼠を捕るのが良い猫だと言う言葉には

猫にどんな価値を見出すのか、

その感覚の違いみたいなものも表現されている気もします。

猫は愛玩動物としてこそ価値があるものであって

可愛ければ良いわけで、

鼠を捕る捕らないは良し悪しに影響するものでは無い、

と言う解釈。

いやいや、猫はネズミを捕ってこそ。

飼い猫に甘んじていないでよく働きなさい、と言う本来の意味に似た解釈。

わたしはむしろネズミを捕ってきてもらったら困ってしまうし。

現代の家猫はネズミなど、一生見ずに終わるかもしれません。

白でも黒でも、ハチワレでもキジトラでも、

可愛い猫には変わりがありませんね。

もしもヒメが白猫でも黒猫でも

黒ぶちでもグレーでも濃いグレーでもハチワレでも

バットマンでも三毛でも茶トラでもキジトラでも

…全部だね?

も、もちろんよ。

どんな色でもどーんとこい、よ。

 

 

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今日のヒメちー

 

箱に入ってても

キャットドームに入ってても

黒多めになってても

白多めになってても

丸くなってても

伸びてても

ニャンモナイトの時だって。

頭のてっぺんから、尻尾の先まで可愛い。

どんなひとでも、

猫を愛でる人はいい人だ。

そう言う格言が欲しい。

 

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