クマ駆除に対して抗議をする残念な人たち
秋田県秋田市のスーパーにクマが侵入したのは11月30日。
47歳の男性従業員が襲われて頭などを負傷し、
クマは2日以上にわたって居座り続けましたが、
わなにかかった後に麻酔で眠らされ、その後駆除されました。
これらが報じられると、市などに100件を超える抗議の声が寄せられたということです。
抗議の内容は、
「人間の都合で殺すな」
「山に返すべき」
「かわいそう」…などなど…。
このような現象は今回だけではありません。
クマの出没が各地で相次いで報じられ、そのたびに同じような命をめぐる論争が起きています。
そしてその抗議の電話のほとんどは、
クマによる事故が発生した県以外からのものであるといいます。
クマも人も命の重さは同じ?
クマも生きている。それは分かる。
無益な殺生はしてはならない。それもわかる。
はたしてクマ駆除の反対派による「命の重さ」「動物愛護」
「自然との共生」などの主張は妥当なのだろうか。
クマ駆除の反対派による主張は、
1つの貴重な意見でこそあれ、妥当とは言いづらい感があります。
クマは知能が高く、また学習能力も高いと言われています。
クマの学習能力の高さ、獲物への執着は
三毛別事件や六線沢熊害事件、苫前羆事件、苫前三毛別事件、
福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件などが物語っています。
クマがスーパーの商品、主にパック詰めになった肉を食べたということ。
少なくとも食べ物の存在を知ったことから、
山に返しても再びスーパーを訪れるリスクがあり、住民や店員の不安が募ること。
地元では今月数十件の目撃情報があったうえに、
捕獲翌日に別のクマの目撃情報もあったなど、のんびり対応している余裕がないこと。
今年は山の作物が豊富で、
クマがエサを求めて山から下りてくることは無いだろうとの専門家の見方もあるようですが、
実際、多数の地域でクマの目撃情報があること。
今回のクマが、体長1.1メートル・体重69キロのメスで、
それほど大きくないツキノワグマだったこと。
襲われた男性が軽傷だったこと。
ツキノワグマは植物が主食であること。(ただし肉も食べる雑食性)。
住宅地のため銃を使わなかったことで「生きて森に返すのだろう」と思わせたこと。
そのことがクマ駆除の反対派にとって、反対意見をヒートアップさせる原因になったと思われます。
「自然と共生していない地域の人」ほど声が大きい
「命の重さ」「動物愛護」「自然との共生」。確かにこれは大事です。
本当に自然と共生している地域はわざわざそれを掲げないでしょうし、
「もともとあまりクマがいなくて被害が少ない」地域の人ほど、
「自然との共生を目指そう」などと掲げるのかもしれません。
「『自分の生活エリアにクマが現れるかもしれない』という状況で安心して暮らせるのか」
「もし自宅にクマが入ってきたら、スーパーでクマに遭遇したら、どう対応するのか本気で考えたことはあるか」
「自分が大丈夫だとしても、家族、友人、仕事仲間などがクマの出没を不安視していないか」
「クマ出没の不安があることでスーパーなどの客足が遠のき、
もし出没したら店が閉鎖されて営業ができないなど困ると思わないのか」
これらを自分事として真剣に考えたとき、「命の重さ」という主張はさておき、
クマの駆除に抗議できる資格のある人はそう多くないでしょう。
意識的かどうかを問わずニュースを見たときの印象や感覚が優先されるほど、
他者への想像力や理解が後回しにされていきます。
さらにネットの普及で目にするニュースの量が増えたことが、
「印象や感覚優先で、他者への想像力や理解が後回し」という風潮を加速しました。
1つひとつのニュースを当事者の立場でじっくり考えるのではなく、
自分の印象や感覚ですぐに判断を下す人が増え、
中でも批判的なものほど瞬発的に発信されやすい傾向があります。
そのニュースに関する情報をそれなりに得て、
自分なりに学んだうえでの印象や感覚であればいいのですが、
瞬発的に抗議の声をあげる人々がそれをしていないのは明白。
特にネットニュースは「あまり考えずにコメントしてもいいもの」とみなされがちで、
思い込みのような声が目立ちます。
だから「他人の命を想像できずクマの命だけを考える」
「生かして返せる方法は何かしらある」などと他人事になってしまうのでしょう。
クマの駆除に関する論争が過剰になってしまう最大の理由は、
他者への想像力と理解に個人差があること。
「もし自分の町の出来事だったら」と言う想像力が皆無であるということ。
わたしはクマ駆除に反対する人の電話対応を業務としてしていたら、
「では、あなたの家の庭に放しますがよいですね?」と言ってしまうかもしれない。
ウシ、ブタ、ニワトリはいいのか。猟友会とメディアの功罪
今回ネット上のコメントを見ていると、
「ウシ、ブタ、ニワトリを食べている人が『クマを殺したらかわいそう』は矛盾している」
という声が散見されていました。
さらに
「『かわいそう』と言うなら人間に危害を与えないウシ、ブタ、ニワトリのほうだろう」
「畜産にかかわる人々はさまざまな思いを抱えながら日々命と向き合っている」などの声もありました。
『わたしは犬を、猫を飼っているから命の重さには十分向き合っているつもりだ。』
と言う方がもしいたのならば、想像してみてください。
野犬が現れて愛犬や自分が襲われたときも同じことが言えるのか。
ペットや人を襲うかもしれない野犬を殺処分しなければ誰が世話をして、誰がお金を負担するのか。
本当の意味で抗議できるのは「私がやります」と責任を負える人だけなのかもしれません。
「命を」の論争をしている人には、
「ちゃんと熊鍋にして美味しくいただきました」って、言えばいいのだろうか。
今回のクマの件は立てこもりの様子から、駆除の瞬間までを、
まるでドキュメンタリーのように報道されている。
それが大きく取り上げられればられるほど、反対意見も出てくる。
クマの行く末を案じる人々の声よりも、
メディアが報じるべきは、各地の猟友会が抗議の声に悩まされていること。
今回は市や警察が主導で対応したうえに、
そもそも住宅地のため銃を使う可能性がなかったことも含め、
もし猟友会へ抗議している人がいたらまったくのお門違い。
先月末には北海道猟友会が道内71の支部に
「クマ駆除要請の拒否を認める通知を出した」ことが大きく報じられました。
これは2018年に同道砂川市のハンターが発砲した際、
危険性を理由に猟銃所持許可を取り消された札幌高裁判決を受けたものでした。
このときにも「クマの駆除」に関する論争が起きました。
猟友会はたとえ住宅街にクマが表れても駆除はしない。
これはとても大きな決断であったといえます。
猟友会は国の組織ではなく、いわばボランティアのようなもの。
視聴率、アクセス数の増加のために、
メディアが過激なタイトルをつけて煽っている面はかなり大きいと思います。
メディアにとってはアクセス数が命ですから、
話題になればなるほど自分のネタが増えるわけですからね。
目先の利益だけではなく、
クマに対する情報と学びを提供し、猟友会などへの理解を促す。
「命の重さ」「動物愛護」「自然との共生」をめぐる論争が健全に行われるために
メディアの果たす役割は重要でしょう。
クレーム、無言電話、誹謗中傷、活動妨害などに悩まされているという猟友会。
クマを駆除すれば「なぜ駆除した」と言われ、
駆除しなければ「なぜ駆除しない」と言われる。
猟友会の立場や仕事などの理解が進むような記事も出してほしいところです。
今日のヒメちー
野生のヒメちーによる家庭内DV。
じーっ。
がぶっ。
がぶがぶがぶ、噛み噛み噛み。
ヒメちーは2.7キロ。標準的なツキノワグマの大きさは60~100kg前後。
たった2.7キロのヒメちーの牙だって相当痛い。
これでもきっと本人は手加減してくれてる。
たとえ猫とて、本気を出せば、ひとの手ぐらい裂くのは朝飯前。
それを体重にして約30倍のクマだと考えたら…。
やはりこれは脅威でしかないと思う。
「自然との共生」。これはとても素敵な言葉だけれど、
現実的に可能かどうか。そう考えた場合、不可能と言えると思う。
動物にとって、人間などたやすく掴まえられるエサにしか過ぎない。
このことを忘れてはならないと思う。
コメント
これは本当に国面積が狭いのに、経済的に発展した先進国の日本では特に出てきてしまう摩擦問題ですよね。ただ、
・山に商業植樹で使うような、食べ物にならない木々ばかりが植えられ、一見すると緑豊かでもそれは多くの野生動物にとっては砂漠のようなもの。
・一見エコのようなソーラーパネルも山林に建築することで生じる弊害
・そもそも何故人里に降りてきているクマやイノシシが狂暴化する傾向があるのか。
そういったことがほとんど報じられていないので、どうしても自分には偏向報道に思えてしまうんですよね。
クマがかわいそうっていう苦情の多くがクマの生息地以外から寄せられている一方、こういったことをほとんど知らない、関心がないのも街中の人が多いのも実情。
じゃあ自然なんていらないっていう単純なものでもないし、それでしっぺ返しを食うのも人間。狭い日本だからこそ、僕らはできる限り両方に寄り添う自然との共生についてはもっと真剣に向き合わないといけない問題ですよね。
良い記事をありがとうございます(^^♪